私たちのような苦しい思いをしないでね!

                                               鈴木しげ子

 我が家は一男一女です。この娘が25才の誕生日を迎えて間もなくの平成4年11月、バイクの仲間十数人と、日本平へツーリングに。その帰り道に単独事故を起こしてしまいました。今から17年前の出来事です。

 日本平パークウェイ・・・・娘が事故した場所は見ておりませんが、丁度ガードレールが切れている場所から道路わきの立木に頭をぶつけ (もちろんヘルメットはかぶっていました) そのまま道路下に落ちて行ったようです。その事故を見つけてくださった時は少々時間が立っていたとの事でした。

 今は、もうありませんが国立静岡病院に運ばれたとの電話での知らせ。

重体、重傷????どんな言葉だったでしょうか?とにかく入院とのことですから、パジャマ下着類の支度をして病院にむかいました。病院に着いて先生から怪我の説明があり、先ずここ三日が山です、脳が回転していること、数ケ所に出血が、眼は瞳孔が開いて生きてくれても左目はだめであろうということ又肋骨が折れて肺に刺さっているとのことなど。ベットの上で身動き一つせず寝ている姿を見て思いもよらなかったこの事実に悲しみのどん底に沈んでしまいました。

 当時この病院にはICUというものはなくお医者さんと看護室の一番近い病室でした。

 気管の切開、肺炎、潰瘍と次々余病が。

主人と私は二四時間寝ずの番でした。主人は一か月の休みを取り私も自分の趣味を生かした仕事をしていましたが、やめざるを得ず娘の看病でした。寝たきりになろうとの看護師さんの予測に、お母さんはカニユーレからのタンの吸引など覚えておいた方がいいよと言う事で、私も言われるままに一生懸命でした。

意識が戻らず二ケ月。生死をさまよう日々。今日は左手の人差し指が今日は親指がと、ちょっとした動きにも一喜一憂したものです。寝ているだけですので床ずれが。長かった髪はバッサリ切られ、外部の人との面会謝絶。

 友人たちが呼び掛けの声をカセットテープに吹き込んで送って下さったり、娘の又私の友人の励ましに、ほんとうに大きな力を頂き頑張ることができました。

 二カ月が過ぎると病室が移されました。まだまだ平熱にはならず、痰の吸引など大忙しの日々。 リハビリどころではありません。でも歩ける様になったとき、足が真っ直ぐ立つ様にと寝たまま足首のマッサージに心掛けました。三カ月、四カ月過ぎても言葉を発することも口からの食事も座ることも出来ませんでした。
 最近日記帳を振り返り見た所そろそろ四カ月を迎えるある日、「私も少し疲れてきたのかホームシックにかかって涙が出てたまらない。教子左手で何か合図をするが私には聞き取りができず悲しい。夜六時見回りの看護師さんが来た時もさかんに手で合図を送る。看護師さんに何かしてもらいたいの??と聞くと 『うん』 と合図。看護師さんの所に手をやり身体を向けるのだが何を言おうとしているのか分からず看護師さんも私も涙を出してしまった」‥ ‥と日記に記してある様に私も大変疲れてきて、地元の病院に移ることを希望いたしました。

 お世話になった約五ケ月、国立静岡病院を後に袋井病院へと転院しました。

 PT、OT、STと本格的なリハビリの始まりです。

 事故から六カ月目に入ってPTでは、立つ・座る・歩くリハビリ。

 OTでは、洋服を着たり脱いだり手のリハビリ。

 STでは、本を読んだり記憶のリハビリ。

この頃本人は私何で此処にいるの?ここどこ?どこで?いつ?などの言葉のみの繰り返しばかりでした。

 病室で何気なく私が与えた鉛筆と紙。OTの先生が与えて下さったボールペンと紙だったか記憶は定かではありませんがこのころから患者さんの似顔絵を書く様になり事故前の好きな絵を描くという自分を取り戻した始まりでした。

 家に帰りたいコールも始まり外泊が許される様になり、そして事故から一年二カ月の入院生活を終え自宅に。

その後も六年間は毎日リハビリ通院、そして週三回が週二回のOTのリハビリ通院になっています。

右手は引き抜き損傷によってほとんど使い物になりません。事故による後遺症では両足は大腿骨骨頭壊死。十年前には車椅子移動を余儀なくされましたが現在では壊死の爆弾を抱えながらも痛みもなくほぼ普通に歩くことができる様になっています。

 あっという間の事故はあまりにも辛い人生の始まりです。

高次脳機能障害の一つ記憶障害は見た目よりはるかに重く超一級です。もともと左利きであったため今になってみれば不幸中の幸いでした。

 病院で作業療法士をしていた方が今から5、6年前に作業所を開いて下さり、そこで調理師の免許を持った方がクッキーを作り、クッキーを入れる袋に娘の書いた四十四コマの絵を一枚一枚貼ること。週一日半ではあったけれど絵を描くこと。作業所に行って仕事をすること。とても楽しみにしていましたが、この七月ごろからクッキーを作る方が体調を悪くして休んでいます。

ですので作業所も行くことができず我が家で絵を描きながら一日を過ごしています。

ある時期には生きていることがつらいとか、親を悲しませる時もありましたが、今では娘と憎まれ口を言い合ってストレスを発散させています。

 生きていることがつらい様な事をいうときは、あの時助けて悪かったわネー・・・「」とか車に乗っている時は大きなトラックが走っていると「あの車にぶつかったら一コロなんだけどどうする?」・・・など。

 又、「教子の為に母の時間が半分になるよ」、すると、「母がボケないようにしてやっている」、「言葉はいいようだね」、すると「頭は使いようだ」と一人前らしい言葉が返ってきます。

 脳の回復はまだまだ発展途上ですがこれからも、努力していくほかはないと思っています。

 静岡脳外傷友の会が発足してそろそろ10年。10年前には高次脳機能障害という言葉は聞くこともなかったかと思いますが、医療、福祉、友の会によるいろいろな勉強会で、私はごくごく最近ではあるけれど高次脳機能障害と言うことは、どんなものかと理解するようになりました。     

交通事故は一瞬の出来事。いつどこでも予想はつきません。ルールを守っていても事故になる時が。でも若い貴女達がこれから私共のような苦しい事を味わってほしくない為に交通ルールを守っての歩行、車の運転をしてほしいと願います。

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