全国当事者奨励賞を受賞した立谷千絵美(たちや ちえみ)さんのお母さんの手記

 

一九八〇年三月十四日(昭和 五十五年三月十四日)

 千葉県船橋市で3700グラムもある丸々と太った愛らしく元気な娘が誕生しました。命名は千絵美。

 二歳年上の娘を負かしてしまうほどの元気な子でした。翌年には妹が生まれ、三歳の時に静岡市に引っ越してきました。二年後には、妹が増えて四人姉妹の二女として、姉や妹を先導しながら我が道を行く頼もしく、羽目を外すやんちゃな娘でした。

一九九五年一一月(平成七年四月) 静岡市立商業高校に入学。

 希望に燃え勉強に部活に友人との付き合い楽しい学校生括を送っていました。

 高校三年の二学期・・・・両親の離婚・・・・思春期の繊細な心が傷つき中退。

母親と娘四人の生活が始まりました。

 この時期に娘は中型バイクの免許を取得。

 両親の離婚から傷ついた心が癒されるには時間がかかりましたが、いつからか娘が、父親的存在として精神的に私達を助けてくれるようになつていました。

 家族の生活の為に、男性中心の会社に就職し頑張っていましたが、会社が倒産してしまい途方に暮れる連日となりました。少し落ち着いた頃、次の会社に事務職として就職。

 今度の会社は素晴らしいスタッフに恵まれ毎日楽しく明るい人生が・・・・・

しかし、

二〇〇三年八月二一日 (平成五年八月二一日) 

四〇〇C Cのバイクで出勤途中 対向車との事故 

相手の乗用車の無理な右折が原因 

静岡赤十字病院に搬送

 即死状態で救急治療室に娘の顔は何倍にも膨れ上がり、耳からは多量の出血

 医師が娘を囲み「即死に近い状態です」と悪魔の様な言葉 

助かる可能性は非常に低いが今から手術をします。

 「助けて!助けて!」と叫びながら娘にすがろうとした時、医師から触らないで!と一喝された事を思い出します。

 手術の同意書には術中・・術後・・急変の恐れ死亡ありと記されていました。

 手術が始まり、どの位の時間が経ったでしょうか 

血まみれの手術着のまま医師から呼ばれ「左側の頭部手術中、右側からも出血していて、何処が切れているのか解らない状態です」 このまま手術を続けますか?・・と 。

医師も手の施しようのない程で見放すか、家族には諦めさせようとしての言葉だったと思いました。「可能性は一%以下」 

でも可能性があるのならば、諦める訳にはいかない!

 娘の生命力を信じ、医師を信じて手術を続けていただきました。 

長い・長い時間でした。ただただ祈る。ひたすら祈る。

 気が付けば病院には、身内や会社の方々や友人たちが大勢駆けつけて下さり、一言もしやべらず全員で娘の手術の成功を願い祈ってくれていました。 

十時間にも及ぶ大手術 

頭蓋骨は外され保存のために娘のお腹の中に埋め込まれ、いつ急変するか解らないとの言葉でICUの廊下の長いすで十日間の寝泊まり、その間にも何度も脳波が止まり、このままの状態では脳死に移行するだろうと・・・ 

医師に呼び出されるたびに、私達は泣き、すがるしかありませんでした。

一日に数分だけの面会 頭から何本もの管、麻酔をかけられ高熱の為に、身体には氷

 息をしているのか?いないのか?娘の傍で泣いているばかりでした。

 実母が千人針のお守りを縫い始めていると励ましに来てくれました。

娘を見舞って下さる方々も一針・一針協力して下さり大勢の方の気持ちのこもったお守りが出来上がりました。

 娘のベッドの傍らには大切なお守り。

 ICUの中でカセットテープの持ち込みが許可されて、愛猫の鳴き声と浜崎あゆみの歌を録音し何度も何度も看護婦さんが流してくれました。

医師から・ 一命は取り留めましたが危険な山はまだまだ続きます。

 麻酔をはずした後、頭蓋骨を出し戻す手術の感染症の危険は大。

 生き延びたとしても植物人間だろうとの宣告。

 しかし、どんな状態であろうと娘に変わりはありませんし、ただただ、生きていて欲しかった。

 或る日、娘に小さな変化がありました。顔が怒っているのです。日増しにその顔は誰かを恨み憎むような鋭い眼。

 数日後には声も涙も出ないけれど、泣き顔のような表情となり、この変化を医師に報告し 

医師にいつ頃意識が戻りますか?・・・・・・意識は戻っていますよ。これが娘さんの意識です。

 でも、家族の励ましでこれ以上の変化を期待できるかもしれませんね。頑張りましょう!

この言葉には驚き・感激・感動、家族にとっては大きな励ましとなりました。

二カ月後

 お腹の中からの頭蓋骨を出し、元に戻す手術。

 数時間後手術室から出て来た娘、麻酔も切れ声を上げて泣いて部屋に帰って来たのです。

 久しぶりに聞いた娘の声、小さな、小さな声でしたがとても嬉しく鳥肌が立つほどの感激でした。

 四カ月間の赤十字病院での治療も終了し、病院からの紹介で伊豆のリハビリを訪ねる事になりました。紹介された病院では診断書を見て、重度過ぎるからと断られ静岡リハビリテーション病院に転院となりました。

 気管切開・鼻腔経管チューブを付け口から食べるという行為やしゃべる言葉の理解さえ出来ない娘に大変なご苦労だったと思いますとの労いの言葉をかけて下さいました。

  二〇〇四年一月六日(平成十六年一月六日)

 高次脳機能障害との診断名 身体一級の認定

 聞き慣れない病名、身体の回復と共にこの障害の症状はどんなに大変なものか・・日々の生活の中で思い知らされました。でも、この障害に重点を置く事はやめました。

 飲んで効く薬は皆無ですから、まず自分の足で立てること、杖を使って歩けるようになる事。自分で食事が出来るようになる事。少しでも言葉が理解できるようになる事の四つの目標を立ててOT・PT・STの先生方と共に家族もリハビリに参加してきました。

少しずつリハビリの量が増え、絵に興味を示してきました。

 三歳児が描くような幼い絵を得意そうに見せる娘を褒めたたえながらのリハビリ。

 自分からスケッチブックに絵を描くようになって行ったのです。

 姉妹たちは、褒める事だけでなく喜んだり、悲しんだり、怒ったり、笑ったり、泣いたり、褒められたり、怒られることでの刺激での社会性

を身につけて行ったように感じます。

 見舞いに来てくれた祖母が趣味でやっている「ちぎり絵」を見せた所、興味を持ち早速リハビリの中にちぎり絵を取り入れてもらう事となりました。リハビリにも意欲的となり、信じられないほどの回復。

 右足内反足の腱の手術も終え、受傷から一年後には杖を使用して歩行できるようになりました。ある程度の意思疎通も出来るようになりました。

 娘と関わって下さった大勢の方々の惜しみない愛情と頑張りに対しては頭が下がる思いです。

一年三カ月のリハビリ生活も終え、中伊豆リハビリテーション病院・更生施設さわらび寮に入所。

 家で生活するにはまだ難しく、遠く離れてのことは辛かったですが、この病院で精神面を鍛えて欲しかったのです。

 更生施設では、自分の事は出来るだけ自分でする。洗濯も・部屋の掃除も片手で不自由ながらも一年間頑張り、この経験が娘の成長の証です。

 帰って来てデイサービスに通所しましたが、再度右足の腱の硬縮が酷く手術。

 病院を退院する頃から娘の様子に異変がありました。表情は無表情で幻覚と幻聴の出現 。

心の医療センターに相談し受診した所、毎日服用している痙攣抑制剤の副作用でした。

 症状が酷い為に入院となりましたが、監視室に入り小さな部屋にベットだけ、トイレには扉もなく辛い体験でした。

 一ケ月後、退院。

 この頃からちぎり絵に真剣に取り組み、七月の全国和紙ちぎり絵展に一般の方に交じり出品し初めての作品が入賞

 辛い経験を乗り越えただけに感激!皆で喜びました。その後は毎年出品し入選を果たしています。

 現在は、デイサービス 「ダンケ」に通いながら、左手だけでコツコツと和紙をちぎり台板に貼り作品の完成を楽しみにしています。

 別に暮す父親も今では娘の協力者となり、娘に惜しみない愛情を注いでくれるようになりました。

 あらゆる困難を乗り越え、今生きがいとも言える和紙ちぎり絵を、全国の友の会の皆様に紹介できる事ができ、大変うれしく思っています。

 また、全国の皆さんの励みになれば幸いです。

 私達家族も娘との生活を楽しみながら、今後もサポートを続けて参ります。 

リハビリとして始めたちぎり絵が娘の成長となり、続ける事の大切さを改めて感じています。

 今回の当事者活動奨励賞受賞は、娘と私達家族の生きていく励みとなります。 

ありがとうございました。

  娘さんの和紙ちぎり絵を活動報告のページで見ることができます。次をクリック。